昭和からの贈りもの 第4章昭和9年〜12年 東京市立第2中学校時代の記録 後編

 5-52.昭和10〜12年頃・大日本国防婦人会   ・ (昭和13年へ)


自宅のきのこ栽培/昭和12年頃

たくさんの写真の中に、祖母の集合写真がありました。
少しピントが合っていなかった為に確認が遅れた写真ですが、かっぽう着姿だった事から戦時中の写真と思っていました。

バックは上野桜木の自宅近くの寛永寺の本堂のようで、祖母をはじめ婦人部の方々が写っていると思いながらパソコンで補正をしたら、肩の襷に【大日本国防婦人会】の文字が見えてきました。
と言う事は、上野桜木界隈での【大日本国防婦人会】の集合写真のようです。


【大日本国防婦人会】とは、昭和7年10月に当時の陸軍省が中心となって発足した婦人団体です。
この時代には既に明治発足の愛国婦人会と昭和5年発足の大日本連合婦人会がありました。

愛国婦人会は傷痍軍人や戦死した家族などの援護や援助などを目的に、皇族や華族など上流階級を会員とし、比較的会費も高価な婦人団体でした。
創始者は奥村五百子氏で千代田区の旧区役所が発祥の地と言われ、区役所の一角には【愛国婦人会発祥の地】碑があり、【昭和8年・軍人会館】には奥村五百子像も見る事が出来ます。

また、大日本連合婦人会は、既にあった全国の婦人会や母の会を文部省や内務省監修のもと集められて昭和5年12月23日に発足した団体で、都市の婦人生活改善を目的として発足します。

一方、大日本国防婦人会は昭和7年3月に、出征する軍人を白いかっぽう着を着て湯茶の世話をして見送りする事を目的とし、【大坂国防婦人会】として最初に発足します。
発足当初は40人程度の会員でしたが、会費が無料から10銭程度で、婦人の労働奉仕が主体だったことから、主婦や婦人労働者を中心に会員数を増やしてゆきます。
これらの事に軍部も注目し、発足7ヵ月後には陸軍支援のもと【大日本国防婦人会】となり、 《国防は台所から》をスローガンに後に1000万人を超える団体となります。

各団体とも会員を募る際などから対抗するような時もありますが、戦時色が濃くなるにつれ、婦人団体の役割も少しずつ変わり、昭和17年には3つの団体が統合され【大日本婦人会】となり、20歳以下の未婚女子を除いて強制的に婦人会に組み入れられる事になります。
かっぽう着姿ももんぺ姿へと変わり、防空訓練や竹槍訓練など銃後の備えとしての軍事色が強くなりますが、終戦を機に解散する事になります。

古い写真の左には旗が見えますが、この旗のマークは大日本国防婦人会のマークです。
またよく見ると端には【大日本】という文字と【谷中第四會・・】の文字も見えます。


以上のように、大日本国防婦人会は昭和7年に結成され、昭和7年で17年には合併によって名称も変わっている事と、祖母やご近所の方々の顔立ちなどから、写真は昭和10年頃から12年頃に撮影されたものと思われます。

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