6-1.昭和13年・東京外国語学校 1938 (昭和12年へ)← ・ → |
||
|
昭和13年に、伯父は東京外国語学校(現東京外国語大学)佛語部貿易科に入学します。 右の写真はその校門の前で撮影した伯父(右)と級友です。 この写真を見てすぐ、 「彼は台湾銀行に就職したな〜」 とすぐに名前やその後の事を思い出していましたが、これからは東京外国語学校時代の写真が続きます。 東京外国語学校の起源は、江戸時代末の安政三年(1856)に幕府によって設立された【蕃書調所・ばんしょしらべしょ】と言われています。 この【蕃書調所】とは、当時の兵学書、造船技術書、軍事関係書、医学書などの洋書や外国新聞の翻訳。 そして諸外国の調査の為に設けられた幕府の機関です。 江戸時代初期の幕府の関心は蘭学中心でしたが、時代の推移と共に英語、仏語、独語などの語学や、科学や数学、印刷学などのさまざまな研究や教育がされるようになります。 丁度アメリカのペリーが率いる黒船が来航したのが3【蕃書調所】が開かれる年前の嘉永六年(1853)ですので、こうした諸外国の脅威に対応すべく、急速に対応策がとられたものと思われます。 この外国語学校の前身といわれる【蕃書調所】の開設当初は、毎日100人程の受講者が学んでいたそうです。 |
|
|
時代が江戸幕府から明治新政府へと変わり、明治2年になると【蕃書調所】は【開成学校】と名称が変わります。 そして新たに全国から学生を集めた教育機関と位置付けられますが、これが大学の始まりと言われます。 この後東京医学校等と合併をし、帝国大学、東京大学と引き継がれていきますが、こうしたことからも【開成学校】が東京大学の祖とも言われています。 この【蕃書調所】は、現在の千代田区九段下に開設されましたが、現在も靖国神社から直ぐの九段下交差点の交番横に【蕃書調所跡】が立っています。 つまりここが日本の大学機関発祥の地ということになります。 また、この時の教授方手伝として招かれた一人に、後の上野戦争では彰義隊征伐の指揮を取り、明治新政府設立の際に奔走し、靖国神社の祖と言われた【大村益次郎】の銅像が立っています。 現在も【大村益次郎】は靖国神社を入って正面に銅像が立ち、その顔は彰義隊が立て篭もる上野を向いているとも言われ、また西郷隆盛を向いているとも言われています。 |
伯父の姿が見えませんので、伯父がカメラで撮影したものと思われます。 |
||||
|
さて東京外国語学校の起源となる【蕃書調所】が【開成学校】と名称が変わった後、明治6年(1873)には英語・仏語・独語・中国語・ロシア語の5語学科を新たに設置し、ここでようやく東京外国語学校として改めて発足します。 その後他の学校と合併し、新にスペイン語と韓国語学部を追加し、7ヶ国語の学部となり、高等商業学校附属外国語学校として再度設立されたのが明治30年(1897)です。 この頃は皇居一ツ橋近くに校舎があった事から一ツ橋校舎と言われ、現在も一ツ橋河岸交差点近くの如水会ビル前には【東京外国語学校発祥の地】の碑があります。 明治32年(1899)には、高等商業学校から分離し新たに【東京外国語学校】と改称し、反対側の神田錦町に校舎が移転します。 現在は【学士会館】が建っていますが、この場所は【開成学校】があった場所でもあり、後に東京医学校と合併し東京大学となった事から、【東京大学発祥の地】の碑もあります。 またこの【開成学校】で教鞭をとっていたアメリカ人教師が、生徒たちに初めて野球を教え、やがて試合が出来る程にまで育てた事から、この学校があった場所は日本の野球が発祥した場所と言われ、学士会館の前にはボールを握った【日本野球発祥の地】碑も建っています。 こうした事柄から、東京外語大学では5ヶ国語の教育が始まった明治6年(1873)を建学の年とし、7ヶ国語の教育となった明治30年(1897)を創立の年。 そして新たに【東京外国語学校】と改称した明治32年(1899)を独立の年、と呼んでいます。 この東京外国語学校で、大学時代の4年間生活を過ごす事になりますが、学徒出陣などがあったことから、実際には、3年半の大学生活となります。 |
昭和の出来事(昭和13年・昭和14年・昭和15年・昭和16年) |