昭和からの贈りもの 時代の出来事 |
昭和15年の出来事 1940 ← ・ → |
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ますます戦時色が色濃くなる中、1月には調理用及び医療用以外の暖房電熱器、家庭用電気冷蔵庫、電気風呂などの電気器具の使用が禁止されます。 3月には名古屋でマッチの配給が始まり、高知でも米の配給が始まると、この後全国に広まって行きます。 また内務省はカタカナ名の芸能人に改名するように指示を出します。 ディックミネ、、ミス・ワカナ、ミス・コロムビアなど16名が槍玉にあげられ、改名を余儀なくされます。 こうした芸名は、皇室や神社の尊厳を汚す惧れがある事や、外人崇拝を促し、社会に不安を与えるという理由からのようです。(表1) これ以降も、カタカナや英語も禁止され、商品の呼び名も、次々変えられる事になります。 同じく外国の都市名も漢字化されます。 《生めよ殖やせよ》の大号令が発表されたのは前年からですが、その号令にもかかわらず、4月時点の出生率は減り、逆に死亡率は世界最高の割合で増えているという結果が出ています。 5月には修学旅行が禁止され、マッチの切符制に続き、砂糖も切符制となります。 6月には銀座と月島を結ぶ勝鬨橋が完成します。(写真15-1) この橋は、元々皇紀2600年を記念して開催される予定だった、万国博覧会の会場である月島を結ぶ橋として計画されましたが、博覧会は戦局の悪化により中止となります。 |
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《隣組》という歌が放送されたのもこの頃ですが、同時に銃後を守り防空防災の観点から、内務省により《隣組強化法》が制度化されます。 戦後GHQによって解体されますが、地域によっては現在も隣組制度が残っているところもあります。 一方《隣組》の歌は、歌詞が変えられて《ドリフの大爆笑》のテーマソングになったりCMソングとして現在も知られているようです。 《七.七ぜいたく禁止令》が発令されたのが7月です。 正式には奢侈品等製造販売制限規則と言い、西陣織などの豪華な着物地や羽織地や、首飾りや耳飾り、ダイヤやルビー、金銀品や象牙製品の製造が禁止され、1個50円以上の時計類も販売が禁止されます。 因みにイチゴなどもぜいたく品とされていたようです。 翌月には東京市内に《ぜいたくは敵だ》という立看板が1500本設置され、《ぜいたく監視隊》なども登場します。 更に食生活対策として料理店にも価格の上限が決められ、昼間のお酒類の提供も禁止されました。 写真15-2は、伯父の写真と一緒に出てきた当時の絵葉書ですが、まさにぜいたく監視隊が《ぜいたくは敵だ!》の看板を掲げている図です。 千葉かずのぶ氏の絵葉書集の中の1枚ですが、他の絵葉書は【昭和15年・一億一心】をごらん下さい。 10月には《国民服令》が発せられ、日本国民男子の標準服装が定められます。 《昭和10年・皇紀》及び《昭和15年 皇紀2600年》でも紹介しましたが、皇紀2600年記念式典が国を挙げ行われたのが、この年11月です。(写真15-3) 皇紀に関しては、上記昭和10年及び15年皇紀に詳しく記載しております。 |
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因みに、この年に登場した零式艦上戦闘機、いわゆる零戦(ゼロ戦)はこの皇紀2600年の零を記したもので、翌年に製造されたものは一式といい、翌〃年は二式艦上戦闘機と言われたそうです。 上野の国立科学博物館には、実際に第二次世界大戦で使用された零式艦上戦闘機21型が展示されています。(15-4) 昭和20年に墜落し、ニューブリテン島沖の海底に裏返しで沈んでいたものを、昭和47年に引き上げられたものです。 また靖国神社内の遊就館 1Fロビーにも零式艦上戦闘機52型が展示されていますが、こちらはラバウルの旧海軍基地や、ヤップ島等で見つかった複数機を用いて復元されたものです。(15-5) こうした戦時色の強い中、歌われていたのは軍歌が多くなります。 昭和12年・愛国行進曲、露営の歌 昭和13年・日の丸行進曲 昭和14年・父よあなたは強かった、愛馬行進曲 昭和15年・月月火水木金金、隣組、紀元2600年 |
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