5-24.昭和10年・豪徳寺/井の頭公園 ← ・ → |
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こちらの写真は、知っている方はこの独特な石門を見ればすぐお判りになると思いますが、現在の世田谷区にある【豪徳寺】の石門です。 撮影は昭和10年10月ですが、昭和初期の頃は多くの家庭でもそうであったように、伯父の家は信仰心が厚く、各地のお寺や神社に行く機会が比較的多かったそうです。 その為に、神社仏閣関係の写真が多くありますが、この豪徳寺も歴史が古く、500年以上も前に開かれたお寺です。 |
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江戸時代の前の室町時代、世田谷一帯は代々二百年も続く吉良家の所領で、居城である世田谷城主要はこの豪徳寺境内にあったといわれています。 その吉良氏が亡くなった母の菩提を弔う為、弘徳院を建立したのが【豪徳寺】の始まりと言われています。 その後天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に吉良家は接収され、世田谷城は廃城となり、江戸時代には江戸城改修の際に石垣など利用され、取り壊されます。 寛永10年(1633)に彦根藩主の井伊直孝がこの一帯を拝領すると、功徳院は代々伊井家の菩提寺となり、新たに本殿や伽藍を整備し、伊井直孝が没した後、その法号から【豪徳寺】と改称することになります。 その後も豪徳寺は伊井家菩提寺とされ、幕末の大老井伊直弼の墓所もここにあり、都指定の史跡でもあります。 また近くには世田谷城跡が公園として整備されていますが、昭和初期の豪徳寺一帯は、小田急線こそ通ってはいましたが、周りは田圃や畑、そして樹木が生い茂っていたそうです。 であるからこそ、家族で豪徳寺に参り、写真のような虫取り用の網を持っているのでしょうが、秋ゆえにどんな虫が捕れたのでしょうかね? さもすると、子供達にとっては、お参りよりも虫取りが目当てだったのでしょうかも・・・ 下の写真も、同じ【豪徳寺】に行った時の続きのようで、ベンチで寛ぐ伯父兄弟や伯父の姿も見えますが、この時は兄弟五人と、祖母。 そしてお知り合いの奥様とお子さんで行っているようです。 昭和2年の小田急線開業と同時に、この豪徳寺駅も開業していますので、この時も上野から新宿に出て、小田急線で来た事と思われますが、もちろん大きな虫取り網も手にしての乗車だったのでしょう。 |
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次も同じ場所のようですが、兄弟よりも随分と背丈が伸びた伯父の姿も見えます。 さて何処で撮ったものかしら? と近辺を散歩し、同じような小路が二つほどありましたが、古い写真に写っている門のような建物と、奥に見える家屋。 そして小路の横の樹木の様子から見て、総門の脇の小路と思われます。 右下が現在のその小路ですが、路面は綺麗に舗装されてはいるものの、桜並木の枝振りは同じようで、奥に見える社殿も同じ場所にあります。 さすがに木のベンチ等は無くなっていますが、車で参拝に訪れる方々はこの道を通ってお寺に入っていくようです。 また、この豪徳寺は【招き猫】の発祥の地としても知られています。 【隅田川沿いを歩く 2】にも記載のように、今戸焼きや今戸神社も【招き猫発祥の地】と称されていますが、これには諸説あるようです。 一応豪徳寺の説では、 《幕末の大老、井伊直弼が、鷹狩の帰りに門前まで来ると、招く猫がいた為、そのまま寺に入り休息をし和尚の説法を聞いているうちに、にわかに夕立となり、先ほどまで立っていた場所に雷が落ち、猫の招きで助かった。》 という説で、それ以来縁起が良いとなり、この寺も別名【猫寺】と言われるようになったそうです。 因みに写真のベンチ奥の中程に写っているのが、その【招猫殿】のようです。 |
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上は裏面に《1935 August 井の頭公園 池畔にて》との記載がありました。 豪徳寺の写真同様に、虫取りの網もありますが、兄弟で井の頭公園に行った時の写真です。 井の頭公園は、古くから湧き水が豊富な場所とされ、先の三宝寺池【昭和4年・三宝寺池】や善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られています。 江戸時代には将軍家の鷹狩の鷹場とされ、井の頭の名も徳川家光が自ら名付けたといわれています。 その為、この井の頭公園一帯は代々幕府の御用地として保護され、明治維新後は宮内庁の管理となります。 その後宮内庁から下賜されたのが大正6年で、以降恩賜公園として一般開放されるようになりました。 因みに、現在の京王線井の頭公園駅が開業したのが、写真が撮影されるの2年前の昭和8年8月です。 この当時は帝都電鉄渋谷線という名称で、渋谷駅から井の頭公園駅までが開通し、翌年になって吉祥寺駅まで前線開通します。 新しい線路が出来、著名な公園に兄弟5人で来た時に伯父が弟4名を撮ったと思われますが、池の反対側にも人が歩いているのが見えます。 この井の頭公園の池は今以上に澄んだところだったようです。 |
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