4-10.隅田川沿いを歩く 2 ← ・ → |
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隅田川から注ぐ【山谷堀】は、江戸時代初期に吉原遊郭が開かれると同時に、新しく掘られた堀で、堀と言えば【山谷堀】を指したぐらい有名な堀でした。 その為、吉原方面へと続く【山谷堀】には、江戸時代はもとより、明治、大正時代と、たくさんの船宿や茶店などが軒を連ねていたそうです。 《明治38年の出来事》に記載の桜鍋【中江】や【土手の伊勢屋】などもそうしたお店で、どちらも明治に開業した老舗です。 この【山谷堀】は吉原を経て三ノ輪方面へ伸び、音無川として根岸方面へ続き、そのまま石神井川まで繋がっていました。 つまり【昭和4年・トーゴーカメラ時代】で登場する【御行の松】の根元まで注いでいた事になります。 またこの山谷堀にはかつて九つの橋がありましたが、その中で一番下流の橋が【今戸橋】です。 現在の【今戸橋】は、道路の両端に親柱のみが残っており、かろうじてここに橋があったことがわかる程度ですが、この橋は関東大震災の震災復興事業として架けられたものでした。
この山谷堀も昭和33年の吉原遊郭の廃止と共に少しずつ埋められて行き、最後に残った今戸橋近辺も、昭和50年前後には完全に埋めたてられ、堀は暗渠となます。 その後新しく【三谷堀公園】という名の、細長い桜並木の公園として生まれ変わり、春の桜の頃には綺麗な桜のトンネルとして楽しませてくれます。
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そしてこの今戸橋近くの小高い丘に建つのが、【待乳山聖天】です。 上は【東京府史跡】に掲載されている明治初期に撮影された【待乳山聖天】ですが、手前に見えるのが山谷堀です。 しっかりした石垣で護岸され、既に江戸時代には立派に整備されていた事が伺えます。 手前には家屋が連なって見えますが、左の家屋は火鉢や土管などを扱っているお店のようです。 上の古い写真の川沿いに道が見えますが、右は現在の同じ道で、その細さは昔と変わらないようです。 |
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現在周りにはビルが建ち並んだ為、かつては『江戸随一の展望・・・』と言われた様子は感じることが出来ませんが、右の写真の角度のみ、往時の雰囲気を残しています。。 この【待乳山聖天】は、関東三聖天のひとつで、毘沙門天が祀られています。 一説によると、 《推古天皇3年(595)にこの地が高く隆起し、そこに金龍が舞い降りた》 とも言われていますが、正式には【待乳山本龍院】と言います。 他に高い建物など無かったことから、眺望もよく、隅田川を行き来する舟の格好の目印となっていたそうです。 また、その展望の良さから、江戸時代の江戸名所図会や浮世絵などにも度々描かれています。 境内に続く石段を登ると、古い塀が見えますが、これは江戸末期から残る【築地塀】です。 全長は25間(45m)にも及ぶ見事な塀です。 また【大根】や【巾着】の彫り物や飾りなどが随所に見られます。 【二股大根】は健康で一家和合を表し、【巾着】は商売繁盛を表すことから、古くからご利益を求める参拝者で多かったようです。 尚、【鬼平犯科帖】の作者である【池波正太郎】はこの聖天町に生まれた事から、この【待乳山聖天】入り口には【池波正太郎生誕の地】碑が平成19年11月に建立されています。 |
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さて、招き猫の焼き物として有名な【今戸焼き】ですが、実はこの【今戸橋】近辺で焼かれた江戸を代表する焼き物の事を指します。 この【今戸橋】近辺は、古くから良質な土が取れたそうで、江戸時代前から、土器や瓦が焼かれていたそうです。 その後江戸時代になると、庶民用の土器などの焼き物が盛んになり、至る所から炉の煙が立ち昇っていたそうです。 また【招き猫】のルーツは【今戸焼】とも言われており、こうした焼き物を【今戸人形】とも言います。 500年以上の歴史を誇る東京を代表する焼き物ですが、残念ながら現在この【今戸焼】を継承しているのは、この【今戸橋】近辺で一軒のみとなりました。 写真のように、【創業500年 今戸焼】という看板のみで、ショーウインドウも無かったのですが、扉を開けてお邪魔しましたら、中はすぐ工房になっていて、今戸焼きの作成中にも関わらずお話を伺うことが出来ました。 お邪魔した時は近隣の神社からの注文の今戸人形の作成中とのことで、丁度この時は【河童寺】に納める河童の焼き物を乾燥中でした。 また【今戸神社】へ納品する招き猫の準備中との事でした。(写真左下) |
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今戸人形の件で色々とお話を伺いましたが、右の写真の手前の三体は【三すくみ】と言う江戸時代から続くお遊び人形です。 《狐は猟師に負けるが、庄屋さんを騙すので勝ち》で、 《猟師は庄屋さんには頭が上がらないが、狐には勝ち》 そして 《庄屋さんは狐に騙されて負けるが、猟師さんには勝つ!》 ということで、同時に人形を出し合って競う、いわゆる《じゃんけん》のようなものです。 また蚊遣り豚が現在の形になったのも、今戸焼がアレンジしたものだそうです。 そして定番中の定番ともいえる招き猫ですが、江戸時代は、後ろが開いていて、そこに灰を入れ、炭を点けて、簡単な火鉢代わりにしたり、キセルを掛けて、いわゆる灰皿代わりにしていたそうです。 現在の小型ストーブと言えるかもしれませんが、右の写真が招き猫を後ろから見たところです。 この他にも鉄砲狐や一文雛等色々紹介頂きましたが、お話を伺っているだけでも楽しかったです。 現在は陶器の招き猫が多いようですが、こうした土で作られ、手で表情を入れた招き猫は、1体1体が微妙に違い、手に持ってもしっくり来る感じがします。 |
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近くには【今戸神社】がありますが、神社内には大きな招き猫が祀られています。 またこの神社の絵馬は招き猫が描かれていますが、境内にはたくさんの絵馬が願をかけて掛けられていました。 更に境内には【今戸焼発祥の地】なる碑や【招き猫発祥の地】といった立て札があり、まさに招き猫の【今戸神社】という感じです。 因みに今戸焼きの碑の横には、新撰組の【沖田総司終焉の地】碑なるものもあり、訪ねた時も、若い女性のグループがお参りに来ていました。
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