5-6.昭和10年・修学旅行 龍田丸 1935 ← ・ → |
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写真は、かつて日本とアメリカを結ぶ、【サンフランシスコ航路】として太平洋を百回以上も横断し、日本を代表する豪華客船として知られた【龍田丸】の船上での記念写真で、裏には《昭和十年五月三十日.三十一日》のスタンプがあります。 「中学校の校長は元々海軍だったんだよ・・・その関係で同期に海軍大佐がいてな〜。 それで校長が話をつけてくれたそうで、関西の修学旅行の時に、この龍田丸に乗れる事になったんだよ!」 「但し行きだけで、帰りは汽車だったよ!」 「海外でなく関西行きの客船だったから、あまり乗る人もいなくてガラガラでな〜。だから、みんなでいろんなところを開けてみて回ったな〜」 と話をしてくれましたが、関西方面への修学旅行の際に【龍田丸】で行くことになったという豪華な思い出の1コマのようです。 今で例えるならば[にっぽん丸]や[飛鳥]で修学旅行に行くようなものでしょうかね? 修学旅行だからなのでしょうか?もしくは記念すべき乗船に備えてなのか、生徒さんは皆ピカピカの坊主頭です。 更に制服も夏用の白いタイプで、伯父は丁度真ん中あたりのお偉いさんと思われる前に座っています。 また救命浮き輪にも【TATSUTA MARU】という文字が見えます。
出港時のみんなが持つ紙テープも華やかに舞っていますが、確かに伯父たち修学旅行の生徒しか見えないようです。 この【龍田丸】は昭和5年に竣工した日本郵船所有の客船で、総トン数16,955トン、全長170m、乗員乗客1168名という大型船です。 サンフランシスコなど北米航路を、同じ頃に竣工した同型船の【浅間丸】や【秩父丸】などの姉妹船と共に担っていました。 因みにこの頃に竣工した大型船で現在も残っているのが、横浜山下公園に停泊している【氷川丸】です。 龍田丸や浅間丸と比べると、一回り小さい客船でしたが、氷川丸はシアトル航路用に建造されました。
上の写真は、関西に向けて港を出た時の様子ですが、大型船に混じって小さな帆掛け舟も見えます。 とすると、この頃はまだ晴海ふ頭は出来ておりませんので、東京湾の竹芝桟橋を出発した様子でしょうか? この後太平洋戦争が始まると、龍田丸は昭和17年には海軍省に徴用され、兵員の移動の為に運航されます。 そして、昭和18年2月8日には乗組員198名、乗船軍人軍属1283名と武器弾薬を載せ、護衛艦と共に横須賀港をトラック方面へ向けて出航しますが、御蔵島沖で米潜水艦ターポンの雷撃を受け、全乗員と共に沈没します。 当時は風速20mという大時化ということもあってか、雷撃を受けて20分後には姿が見えなくなり、翌日朝から本格捜索をするも、重油以外の浮遊物は見つからず、飛行機での捜索も行われましたが、龍田丸の痕跡はなにも見つかる事はありませんでした。 |
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