昭和からの贈りもの 第6章 昭和13年〜16年 東京外国語学校時代の記録

 6-46.昭和13年頃・戸田橋   ・ 


昭和13年頃の戸田橋とダットサン

上の写真は【昭和13年頃・ダットサン】に掲載の写真で、伯父が大学時代の同級生と一緒にダットサンに乗って、いわゆるドライブに行ったときの写真です。

以前に掲載した時は王子駅前のロータリーを出発した事までは判っていたものの、何処の橋か不明でした。
が、先日ホームページをご覧になったという都内のMさんから連絡があり、この橋は【戸田橋】ではないか?とのご指摘を頂きました。

早速古い戸田橋が掲載されているという、荒川知水資料館《あらかわ思い出アルバム》のホームページを確認をしたところ、写真に写るのは昭和7年に完成した3代目の戸田橋で間違いないことが判りました。
下の写真がそうですが、完成当時の戸田橋と橋の形や親柱など同じことが判ります。
ただダットサンが写る堤防近辺は、まだ舗装されていないようです。


完成当時の戸田橋/戸田市郷土博物館蔵

この戸田橋は東京と埼玉県の県境にあたり、現在も4代目の戸田橋が架かっていますが、最初に橋が架けられたのは明治8年になります。
当時は木製の橋で長さ135m幅4.2mの有料橋だったそうです。
その後大正元年に再度木製の橋が架けられますが、関東大震災や洪水で破損したことから、写真の3代目の橋が架けられました。
尚、戸田橋が架けられる以前は【戸田の渡し】という渡し舟で行き来をしていましたが、既に江戸時代前の天正年間(1573〜1592)には渡し舟があったようで、当時から主要な幹線だったことが判ります。
この橋が架かる街道は中山道(木曾街道)と言われ、日本橋を出発して最初の板橋宿と次の蕨宿の間となることから、この場所は江戸の要所とされており、また水運を利用した地の利から、幕府公認の河岸も置かれました。


現在も残る戸田橋の親柱

現在は幅が21mという大きな戸田橋が架かっており、新しい4代目の橋が架けられると写真の3代目の橋は取り壊されましたが、戸田橋の親柱のみが板橋区の小豆沢公園及び戸田市の戸田市立親水公園に現在も残っています。


東京側の小豆沢公園に行くと、そこに橋があったかのように、1対の親柱が並んでいました。
当時の親柱は東京側と埼玉側と異なっており、それぞれ東京側
そして解説には戸田橋の由来と共に、2代目戸田橋と東京オリンピックの際聖火ランナーが戸田橋を渡っている様子なども描かれていました。


戸田橋の親柱
これは、荒川に架かっていた三代目戸田橋の東京都側にあった親柱(おやばしら)です。
江戸時代の中山道は、荒川を渡し船で渡っていました。橋が架けられたのは、明治8年
(1875)、長さ135m、幅4.11mの木製で、 はじめは通行料をとる有料橋でした。二代目は路面を土で固めた木製土橋で、大正元年(1912)の完成です。
大正12年の関東大震災後、都市化する東京の北の玄関口として架けられたのが三代目戸田橋です。昭和7年(1931)に完成したこの橋は長さ545m、幅11mで、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的なトラス橋の鉄橋でした。
昭和26年からは橋のたもとで納涼花火大会が開催されるようになり、同39年の東京オリンピックでは、聖火ランナーがこの橋を渡るなど、板橋区や東京都の発展を見守り続けた橋でした。
昭和53年、現在の四代目戸田橋が完成し、三代目は解体されましたが、「橋の顔」である親柱はこの地に保存されることとなりました。埼玉県側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。  
(平成9年10月、板橋区教育委員会)
昭和7年3代目鉄橋戸田橋(奥)と2代目木製 昭和39年、戸田橋を渡る聖火。左手前に親柱が見える

この親柱は埼玉県側と東京側と形が異なっており、ダットサンが写る古い写真は東京側で、右手の親柱には《東京府》手前左側には《戸田橋》の銘が描かれていました。


外語学校級友とダットサン/昭和13年頃
改めて伯父に『この橋は戸田橋のようですね』と言ったら思い出したようで、上の写真を見て
「そうそう戸田橋だ!外語学校の貿易科の友達と3人で行ったんだよ!」
「途中でエンストしてな〜大変だったよ!」
「手前は遠藤君だ!彼は丸ビルの愛国工業にいってな〜社長までなったけどな〜」
とまたいろいろ思い出していました。
Mさんのおかげで、また一つ判らなかった昭和の記録が判明しました。どうもありがとうございました。


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