昭和からの贈りもの 第6章 昭和13年〜16年 東京外国語学校時代の記録

 6-13.昭和14年・日本競馬會宇都宮牧場   ・ 


日本競馬会宇都宮牧場/昭和14年

伯父の母の実家が現栃木県鹿沼だったことから、宇都宮方面には度々訪れていたようですが、ここからの写真も、そうした鹿沼の実家に行った時に足を伸ばした時のようです。

まず左は【日本競馬會宇都宮牧場】という門の前で撮影した伯父のようです。

見るからに広そうな土地に、細長い道が伸びていますが、日本競馬會とは昭和11年に設立された特別法人で、現在の日本中央競馬会(JRA)の前進でもあります。
現在は、この宇都宮牧場はありませんので、この場所が何処かは不明ですが、この頃栃木県内には、昭和5年足利競馬場、そして昭和8年には宇都宮競馬場が相次いで開場しており、競馬が盛んだったようです。

宇都宮在住のM様より連絡を頂き、上記写真の日本競馬會宇都宮牧場が【JRA競走馬総合研究所】として継続しているとの事と写真をお送りいただきました。
M様のお宅にも近いそうですが、地元では【育成牧場】と呼ばれているそうです。
そして送っていただきました写真は、73年前と同じ並木道が続いていました。

調べましたら【JRA競走馬総合研究所】とは、競走馬の生産から病気治療、飼料や馬場など、競走馬に関する様々な事を研究する機関で、1997年にこの宇都宮に移転してきた事がわかりました。
更に、地元では育成牧場と言われているように、移転前は日本中央競馬会宇都宮育成牧場という名称で、競走馬の育成から騎手の育成などを行っていたようです。

Mさんに送っていただいた写真のように、現在では“馬に親しむ日”等も設けられているようです。

いずれにしても、また一つ古い写真と現在が結びつく事ができました。
Mさんありがとうございました。
2014.5.25

日本に競馬が伝えられたのは、江戸時代末期の鎖国政策が解かれた以降と言われています。
横浜に外国人居留地が設けられ、その居留地内で行われた洋式競馬が最古の競馬とされますが、下はその当時のイギリス軍練兵場で行われた競馬を描いたもので、なんと馬に乗っているのは、ちょん髷姿の武士のようです。


江戸末期(1865)の横浜での競馬/ウィキペディアコモンズ

明治時代になってからは、洋式競馬を模倣した競馬が行われ、現在の靖国神社や上野の不忍池、また皇居吹き上げ御所にも競馬場があった程です。
当時は政財界や軍人、皇室関係など、いわゆる紳士淑女たち上流階級の娯楽として開催されていたようです。
また、明治13年には明治天皇から下賜品を賞品とする競争が開催されますが、これが現在の天皇賞の始まりと言われます。
ただ、当時は賭博禁止の下、馬券の販売がなく、明治30年頃には各地の競馬は運営が出来なくなり姿を消すことになります。

その後、日清戦争や日露戦争を経て日本の軍馬が諸外国の馬に劣ることを認識した政府は、軍馬の育成を目的とした【馬政局】を設置すると同時に、優れた馬を育成するには民間の力も必要であり、それには資金の流入が必要としたことから、馬券の販売を認める事になります。
これによって明治40年には、札幌や函館、川崎や新潟、京都、小倉、などその他日本各地で競馬が開催されることになります。
しかし、公営競馬ではなかった事から、八百長がが横行し騒動が起こり、紳士淑女の場が不良の出入りする場となり、風紀上もよくないと言うことから馬券販売が禁止され、旧来の競馬開催団体は解体され、新たに競馬倶楽部という名称の下、補助金による競馬が開催されます。

その後大正12年には競馬法が成立し再び馬券販売がなされ、昭和11年に、写真の日本競馬会が設立されます。




宇都宮市内のお茶やさん/昭和14年

こちらは帽子をかぶった男の子とお母さんのようですが、懐かしい茶箱やガラスのケースが見えます。
店頭のタイルのショーケースも懐かしいですね。
店内には軍旗がひるがえるポスターのようなものや《天晴》と書かれた紙が張ってあります。
また女将さんの後ろには《宇都宮茶葉・・・》という文字も見えます。

としますと、宇都宮市内のお茶屋さんでしょうか?


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