5-35.昭和11年頃・軍事演習 ← ・ → |
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前に軍事演習の集合写真がありましたが、今度は銃を肩にかけての行軍演習の写真です。 前回とは服装が違いますが、この時の演習は《東京府下中学連合演習》と言い、東京の中学校が合同で演習をた時の1コマです。 学校でも軍事教練は良く行われていたそうですが、こうして郊外で、銃を肩にしての軍演習も何度かあったそうです。 「演習用の銃だし、当時は当たり前の事だから… 確か《サンパチ》ではなかったかなぁ… そういえば学校にはちゃんと銃器庫があって、そこから銃を出して訓練していた…」 と話をしてくれましたが、学校に銃器庫があったとは、今では考えられません。 もちろん弾は込められず、演習用に蓋がしてあったそうですが、剣をさして銃剣としても使えたそうです。 そして《サンパチ》とは、三十八式歩兵銃の事のようです。
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写真は行軍時と休憩時の2枚ありましたが、こうして銃を立てる様子は初めて見ました。 また隣に腕章を腕にしている生徒も見えますが、訓練の際はこうした班長等が決められていたそうです。 右はの2枚は、東京市立第二中学校の卒業アルバムに学校生活の思い出として掲載されていたものです。 学校内にあった《銃器庫》や《校庭での軍事演習》の様子ですが、校舎内に銃器庫があったと言う事は、現在からは考えられない事です。 他にも《乱射乱撃》というタイトルで畑に腹ばいになって銃を撃つ姿の写真や、《熱火ヲ浴ス》という題字で、大きな火器を使用している写真。 また《敵兵發見》というタイトルで物陰に隠れて銃を持つ様子等も掲載されていました。 こうした卒業アルバムにも銃を持つ写真が掲載されていますが、これは学校配属将校という制度が大正14年に公布され、全国の中学校や専門学校、大学などに陸軍の将校が配属され軍事教練が始まったことによります。 第一次世界大戦の終結以降世界で軍縮の流れとなり、国内でも大正11年の山梨軍縮と大正14年の宇垣軍縮などによって10万人規模の人員削減という大幅な軍縮が行なわれます。 この軍縮によって削減された陸軍予算は関東大震災の復興予算に充てられ、教育経験のある将校は配属将校となって全国の学校に赴く事になります。 因みにこうした配属将校の立場は、校長の下ですが、教頭の上の立場に置かれていました。 こうした事から、軍事教練は学校生活の中では日常の事となっていたようですが、この頃は特別に軍事色が強いといった訳でもなかったようです。 第一次世界大戦が終結し、満州事変の騒動も一旦治まり、太平洋戦争の前というつかの間の平和を謳歌していた頃とも言えるようです。 確かに【5-6.昭和10年・修学旅行 龍田丸】にもあるように、豪華客船で修学旅行に行くなど時局の悪化時には無理な事です。 この龍田丸は昭和16年には軍に徴用されその後撃沈される事になりますので、まさに平和な時代でなければ出来ない事です。 尚、この修学旅行やバスで富士五湖方面の修学旅行の写真もそうでしたが、カメラを持っていた伯父は、撮影班としていろいろな学校内の行事など、いろいろ様子を撮影していたようで、それらの写真が卒業アルバムにも採用されていたとの事です。 ※Iさんの情報により、記載を一部訂正しました。 |
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