5-14.昭和10年・竹岡海水浴場 ← ・ → |
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随分と広い砂浜が広がっていますが、これはかつての千葉県内房の竹岡海水浴場です。 かつてというのは、現在は海水浴場はなくなり、今では竹岡漁港になっているからです。 昭和30年頃まではこうした海岸線が広がり、また写真にも舟がたくさん写っているように、漁港としても栄え海水浴場としても人気で、東京からも比較的近いという事で、夏はたくさんの海水浴客で賑わっていたそうです。 それが、舟が段々と大きくなったり防災の観点から、浜を埋め立て防波堤も設置し、漁港として整備されて行き、海水浴場としての竹岡から漁港の竹岡へと変わりました。 |
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実際に竹岡漁港に行き、港で網の作業をしていた年配の方にお話を聞いてきましたが、『昭和10年の写真です』と写真を見て頂いたら、 『昭和10年というと丁度産まれた頃だな〜いや〜この風景は懐かしい・・・』 と言いながら、写真の海岸線と山、そして手前の鳥居を見て、 『あ〜これは後ろの神社から撮ったものだな!』 と指差しをして鳥居の場所を教えていただきました。 そして 『写真にもあるように、砂浜には舟がいっぱいあったな〜。』 『昔はあの辺まで砂浜が広がっていてな〜、浜が広いおかげで、ここは東京湾の波が多少高くても、平気だったよ!』 と懐かしそうにお話をして頂きました。 右が写真を撮影したと思われる場所です。 鳥居や神社は新しく立て替えられてはいますが、当時と同じ場所にあるそうです。 そして下が、鳥居のある所から海岸方面を撮ったもので、上の古い写真と同じ場所からの景色です。 広かった砂浜はすっかり埋めたてられ、今では海岸線は見えなくなりました。 その代わりに漁港の作業用の小屋がずらりと並んでいました。 |
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同じく竹岡海水浴場の砂浜で、伯父の兄弟と自宅近くのお友達を撮った写真ですが、三者三様の水着ですね。 浮き輪もおしゃれな感じがしますが、さすがに足元は、いつもの下駄です。 バックにはトタン屋根が見え、稲わらが掛けられ、一見しますと漁師さんの作業小屋と思ったのですが、地元の方に聞きましたら、これは小屋ではなく漁船との事でした。 前頁の写真の後ろにも、同様の舟の舳先らしきものが見えますので、確かに船のようです。 また、同じく前頁の写真には、稲わらを丸く積んだようなものが浜辺にいくつも見えます。 右が拡大ですが、舟に掛けられた稲わらといい、一体何なのか全く判りませんでしたが、漁師さんに聞きましたら、これは、網を稲わらで守っているとの事でした。 当時の網は、今のようなナイロンや化学繊維ではなく、木綿等で作られ、しかも手編みだったことから、漁師さんにとっては網は命の次に大事な物であったそうです。 そうしたことから、こうやって、雨や潮から網を守っていたそうです。 このように、稲わらが積み上げられた広い砂浜も、現在は右下の写真のように、コンクリートの漁港に変わってしまいました。 唯一、松いアーチを描くコンクリートの船着場だけが、かつて砂浜が広がっていたであろう事を忍ばせてくれます。 竹岡は、かつては里見家の城があり水軍基地として重要な役割を果たしていました。 また明治時代の頃は、道路事情が良くなかった事から、東京からの郵便船の船着場として発達しました。 そして大正15年には竹岡駅が出来、昭和初期にはたくさんの海水浴客が訪れた竹岡は、時代と共に変わって行ったようです。 |
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