昭和からの贈りもの 第4章昭和9年〜12年 東京市立第2中学校時代の記録 後編

 5-39.上野近辺の街   ・ 

【かっぱ橋本通り】

上野広小路が寛永寺への参堂として整備されたことは先にも述べましたが、もう一つ【御成道】として古くから整備され出来たのが、上野から昭和通りを経て、浅草に通じる細い商店街の【かっぱ橋本通り】です。

将軍家が寛永寺に参拝し、その後浅草の観音様を詣でる為に【御成道】として出来た通りで、確かに寛永寺横に位置する【両大師橋】から浅草寺方面に向けてまっすぐな道が400m程伸びています。

明治時代は単線のレールが敷かれ、馬車鉄道が通る道として栄え、上野と浅草を結ぶ幹線道路として賑わいを見せていたそうです。

その後明治後半に、平行して走る現在の浅草通りが道路拡張で広くなると同時に、市電の線路が複線として設置され、馬車鉄道は廃止となります。

大正時代には西側に言問通りが整備され、、更に地下鉄銀座線など交通の便が良くなるにつれ、この【御成道】の人出は減少するようになりました。

ただ毎年7月7日の七夕さまの頃は【下町七夕まつり】が開催され、かつての【御成道】には七夕飾りが舞い、かつての賑わいを取り戻します。

右は現在のかっぱ橋本通りで、人影の少ない早朝に撮ったものですが、浅草寺に向けてまっすぐな道が伸びているのが判ります。

この狭い通りに、将軍家の籠行列が並んで通る様はどんな光景だったのでしょうかね?


現在のかっぱ橋本通り/平成19年早朝

下町七夕まつりのかっぱ橋本通り
【上野仏壇通り】

上野駅から駒形橋へ続く通りは《浅草通り》と言いますが、特に上野から銀座線田原町近辺までは60軒程の仏壇屋が並び、日本一の《仏壇通り》とも言われています。

江戸時代の明暦の大火(1657)によって、江戸市内の寺院がこの一帯に集められた事から門前町として栄え、それにあわせて仏壇屋が集まってきましたが、通りの南側に仏壇屋が集中しているのは、陽射しを嫌う為と言われています。

前述のように、この通りはかつては上記【かっぱ橋本通り】と同じくらいの1車線程度の道でしたが、明治後半に道路拡張で広くなり、更に関東大震災以降の震災復興で6車線道路になった広い通りです。

《仏壇通り》というだけあって、この通り近辺だけでも、浅草寺や本願寺など大きな寺院から小さいお寺まで、100を越す寺院がありますが、その中には、
・750年以上の歴史の《俎板開き》が開かれる【坂東報恩寺】
・日本を測量した伊能忠敬の墓地がある【源空寺】
・河童の手のミイラが安置されている河童寺こと【曹源寺】
などもあります。

尚、日本初の地下鉄が開通したのが、この仏壇通りこと【浅草通り】の下で、上野駅から【稲荷町】、【田原町】を経て【浅草】へと続きますが、最近の地下鉄は地下3階、4階が多い中、この通りの地下鉄は日本で一番浅い位置にある地下鉄です。



仏壇通りとも言われる浅草通り・稲荷町交差点

【かっぱ橋道具街】

先の【かっぱ橋本通り】と交差し、浅草通りから言問通りまでの1km程の通りに業務用厨房用品店がずらりと並ぶ通りが【かっぱ橋道具街】です。

厨房用品が並ぶ規模としては日本一で、厨房用品はもちろん、のれんや椅子テーブルなど店舗用品や、商品サンプルのお店も数多くあります。

元々は【新堀川】という川が入谷から蔵前にかけて流れており、その川に架かっていた橋を【かっぱ橋】と言いました。
大正時代に入り、道具屋が集まりだして、次第に増えていき、昭和初期には新堀側も埋め立てられ暗渠となって現在のような通りになりました。

さてこの【かっぱ橋】には、【河童伝説】があります。
元々この近辺で雨合羽を売っていた合羽太郎が、子供に苛めている河童を救います。
その後大雨のため私財を投じて橋を作ろうとしますが、大雨のため困っている時に、助けた河童が手伝ってくれたという伝説です。
そうした事もあってか、この通りの一角には黄金のカッパ像があり、またかっぱ橋本通りには、カッパの木像がいろんなところに立っています。

この商店街では毎年10月9日を「道具の日(どーぐ)」とし、【かっぱ橋道具まつり】も盛大に行われています。



大きな広告が目印のかっぱ橋道具街入り口


現在も交差点名に名を残すかっぱ橋

【アメ横】

上野公園前と言えば、【アメ横】こと【アメヤ横丁】は、歳末の大売出しでは必ずと言っていいほどテレビで中継がなされ、知らない人はいない、上野観光名所のひとつでもあります。

JR上野駅から御徒町駅までのガード下に連なる商店街で、鮮魚などの水産商品を中心に乾物、果物、野菜、菓子などを扱う店舗が続きます。

土日などはたくさんの買い物客で賑わいますが、何と言っても年末の賑わいは相当なもので、多い日はこの狭い路地に50万人を超える人が繰り出す程です。

この【アメ横】の歴史は意外と新しく、戦後になります。
終戦後の混乱期に、上野ガード下に闇市が開かれたのがアメ横の始まりと言われていますが、アメヤ横丁の由来は諸説あります。

@ 戦後砂糖が手に入らない時代に、サツマイモの澱粉を使った飴を売ったところ、飛ぶように売れて次々アメ屋が出来た。
A 引揚兵たちが、米軍払い下げの物資を売り初めて「アメヤ」となった。
B 米兵が小遣い稼ぎに様々な物資を売り「アメリカ横丁」と呼ばれていた。

などと言われていますが、アメヤ横丁と言われるようになったのは、昭和22年頃からといわれています。

またアメヤ横丁と並んでいる通りは、【上野中通商店街】こと【上中】ですが、衣料品店やカバン屋さんが軒を連ねています。

右は早朝のアメ横と、普段のアメ横です。
これが年末になると、身動きも出来ないほど混雑する通りとなります。



早暁のアメ横と上中

混雑時のアメ横と上中


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