昭和からの贈りもの 第4章昭和9年〜12年 東京市立第2中学校時代の記録 後編

 5-12.昭和10年7月・自宅前路地   ・ 


昭和10年7月 上野桜木裏路地

ネガには《昭和十年七月 隣の(石谷)ボーヤ》と彫られていますが、上野桜木の自宅前路地で隣のお子さんを撮った写真です。
古い写真の日付等は、プリントの裏に記載されていたり、アルバムに整理されたものもありますが、こうしたネガに直接ペン等で彫ったものも結構ありました。
大事なネガに・・・とも思いますが、逆に正確な年代や誰か等が判ります。

道路は未舗装ではありますが、比較的整備されているようです。

両端には側溝があり、写真中ほどにある箱は、どうやらゴミ集積用の箱のようです。

ゴミの箱の手前には側溝掃除用なのか、ほうきも見えますが、この地区は既にゴミの収集は定期的に行われており、また側溝の掃除、いわゆる《ドブさらい》も街ぐるみで行っていたそうです。

左奥には、建物の建材なのか、柱のようなものが置かれています。

そして最奥が【常名院】の塀ですが、伯父達は、いつもこの塀を乗り越えながら遊んでいたそうです。

右は、現在の同じ場所を撮ったものですが、周りの塀はもちろん、道路も舗装され、綺麗な通りに変わっていますが、奥の【常名院】の塀は、当時のまま残っているようです。

現在の上野桜木裏小路

上野桜木は道路整備やゴミ処理など比較的早くから整っていたようですが、大正時代の東京市道路局の資料も残っておりました。

右がそうですが、これを見ますと、道路舗装工事費の領収書のようです。

当時は道路整備等しっかり行われてはいたようですが、どうやら各家庭の負担も結構あったようです。
しかも大正14年請求の金額が30円79銭となっています。

大学卒業の銀行員の初任給が60円前後で、大工さんの日当が2円程度の時代ですので、現在の貨幣価値に換算すると15万から20万前後でしょうか?
もしかすると、言問通りの舗装費用なのかもしれません。

他にも、上野桜木町会の回覧では、
《各家庭で消化ポンプを用意しましょう。》
という旨や、消火器の料金が記載された書類もありましたが、この桜木地域は昔からこうした、ゴミ処理や防災等には力を入れていたそうで、現在も防災については町ぐるみで喚起を促し徹底している地域です。



大正14年度道路舗装の負担金領収書

上野桜木裏路地/昭和10年

上も同じ昭和10年7月の写真で、こちらもネガに日付等の記載がありますが、走っているのは五男の私の父のようです。

前頁同様、道路端には建材が置かれていますが、子供たちにとって、こうしたものは格好の遊び場となったそうです。

今では、さまざまな法律で規制され、道路に物を置くこともそうですが、危険なものとしてみなされるでしょうね。

右の2枚は自宅の門の前での写真ですが、上の写真と同じく昭和10年の、言問通りより1本裏の小路です。

上に写っているのは伯父と4男。
そして下は《母》と彫られているように私の祖母です。

7月16日の記載がありますが、16歳になる前の伯父と四男の弟です。

これら4枚とも同じ夏の天気の良い昼下がりに、兄弟で遊んでいた時に撮ったのかもしれません。



上の2枚は家の門の前での写真ですが、丁度伯父の頭の後ろ、及び祖母の顔の横に穴が開いている部分が【郵便差入口】です。

そして右の写真が、玄関の裏側から撮った伯父の写真ですが、伯父の左手に見える箱が、【郵便差入口】の内側です。

つまりこの箱に郵便物が溜まることになりますが、中が見易いよう格子になっているのが判ります。


因みに下に写っている三輪車は、五男の父が使っていた三輪車でしょうか?
随分と細いフレームですね。

そして右が【郵便差入口】で、明治中頃にこの家が建てられた時からのもので、とてもしっかりとした鋳物でできています。

【郵便差入口】と右から読むように作られていますが、百年に渡って出し入れされてきたからか、文字も磨り減っていますね。

郵便を入れた後に、口が閉まるように後ろには蝶番がありますが、既に錆びて効かなくなって久しいようですが、いつの日か門を作るときが来たなら・・・と現在はこの郵便差入口は我が家にあります。




明治35年建築当事からの郵便差入口

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