7-8.昭和17年・代々木錬兵場 2 ← ・ → |
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前ページの写真を拡大してみると左端に伯父が写っていますが、肩の階級章をみると星★が3つですので、軍隊に入って4ヵ月後には上等兵になっていたようです。 真ん中に座って双眼鏡らしきものを下げている方の肩には、ライン1本の階級章が見えますので、伯父たち上等兵の上の兵長のようです。 背中に背負っているのは背嚢(はいのう)で、防寒服や外套、その他行軍に必要なさまざまなものは入っているそうです。 また腰に下げている皮の入れ物は、弾入れだそうです。 この写真が撮られた代々木練兵場も、終戦後は米軍に接収され、ワシントンハイツという米軍将校の為の住宅が整備されます。 施設には827世帯の住宅から、教会、病院、劇場、アメリカンスクールなども建てられ、米軍施設としては都内一の規模となり、もちろん日本人は立ち入り禁止区域となっていました。 その後昭和34年に東京オリンピック招致が決定した事から米軍から返還され、宿舎は選手村に転用され、この一帯がオリンピックの競技場と選手村に決定します。 昭和39年にはオリンピック会場となる競技施設と同時に、渋谷区役所や渋谷公会堂、NHK放送センターも運用を開始します。 同時にこの一帯を流れていた川も整備されて暗渠となりますが、童謡の《春の小川》は、この代々木練兵場の横を流れていた河骨川をみて作られたと言われ、公園横の小田急参宮橋駅の沿線には【春の小川の歌】碑があります。
オリンピック会場として作られた第一体育館及び第二体育館は現在も利用されていますが、選手村だった場所は、その後オリンピック記念青少年総合センターと変わり、また昭和42年には代々木公園が開園されます。 このオリンピックの選手村の一部が現在も代々木公園に残っています。 オランダ選手が利用していたという宿舎ですが、元々はワシントンハイツの軍人の住宅でした。
さてこの代々木練兵場の名残りが現在もありました。 ひとつは渋谷東急ハンズ前の交差点にある【陸軍用地】という標石です。 下の写真左手の建物は渋谷清掃事業所ですが、この前の自転車置き場の奥に、ポツンと建っていました。 丁度ここが代々木練兵場と民間地の境でしたが、この近くの渋谷税務署前には【二・二六事件慰霊碑】があります。 この渋谷公会堂や区役所がある一帯は、かつて陸軍監獄があったところで、二・二六事件の首謀者たちが投獄され処刑された場所でもあります。
そしてもうひとつが、代々木公園近くの小田急線参宮橋駅の建物横にある【陸軍省所轄地】という標石です。 こちらも駅の片隅で蔦に覆われ隠れるように建っていますが、この小田急線の敷地も、元々は練兵場の敷地でした。 東京都内には、こうした軍隊の名残りともいえる標石がいくつか残っているようです。
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