昭和からの贈りもの 第4章 昭和6年〜8年 東京市立第2中学校時代の記録 前編

 4-13.昭和6年頃・六大学野球   ・ 


昭和6年頃の神宮球場六大学野球

こちらの写真は正確な撮影年月日は不明ですが、兄弟で度々観戦にいった、神宮球場の六大学野球の写真ではないかとの事です。
この神宮球場は大正15年に完成し、昭和6年には55,000人収容に改修されましたので、改修後に見に行ったのでは?と思います。

丁度試合開始前の両軍整列の時に撮ったようで、これからプレイボールという時でしょう。
右手前には両腕を掲げた応援団らしき姿も見られますし、服装も学生服です。


先にも述べましたように、まだプロ野球が発足しておらず、六大学野球や全国中等学校野球大会(現高校野球)が人気絶頂の頃です。
特に神宮球場で開催される早慶戦は、ニセのチケットが出回ったり、ダフ屋までも登場していたそうで、チケットを取るのに倍率が6倍〜7倍という試合もあったようで、まさにプラチナチケットだったようです。

伯父も何度か観戦に行ったことがあったそうで、
「まあとにかく人が多く、もの凄い人気だったよ!」
と申していました。

昭和8年には、早慶戦で観客が投げ入れたリンゴがきっかけで、双方がぶつかり合い、銀座でも衝突するという《リンゴ事件》なども起るほど激しい応援だったようです。

因みに六大学野球の前身となるの早慶戦が始まったのは、明治36年で、早稲田が慶応に対して挑戦状を送り、そこから早慶戦が始まりました。
その後明治大学が加わって三大リーグとなり、次いで法政大、立教大が参加し、大正14年になって東京大学が加わって現在の六大学野球となりました。
その為、現在も最終戦は早慶戦となっています。

この頃には野球のラジオ中継も始まり、また昭和6年の秋にはアメリカの大リーグの選抜チームが来日し、日本の六大学野球選抜チームと対戦し、さらに野球の人気は高まる一方だったそうです。

因みに、日米の試合は17試合対戦し、全て大リーグの圧勝に終わったそうですが、昭和9年にはベーブ・ルースと共に2度目の来日をし、益々野球熱が高まって行き、これを機に日本のプロ野球も結成されていきました。

伯父の写真にも寛永寺で野球をしている写真がありましたが(昭和5年・野球)、子供たちにとっては憧れだった事でしょう。


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