昭和からの贈りもの 第4章 昭和6年〜8年 東京市立第2中学校時代の記録 前編

 4-6.言問通り いまむかし 1   ・ 

上野桜木に古い伯父の家があったように、現在の言問通りにも、明治から大正時代の頃に建てられたと思われる古い建物が何軒か残っています。

まずは寛永寺坂に近いところに建つのが、【おせん】というおでん屋さんです。
さすがに伯父宅から近すぎる事もあって、伯父は行ったことがなかったそうですが、知る人ぞ知るお店で、谷中界隈の方々にとって、憩いの場ともなっているようです。

因みにおでん屋さんを始める前は、【江戸太神楽】の十二代目、鏡味小仙師匠が住んでいて、

「たまに獅子舞の稽古や義太夫なんかが聞こえてきたな〜」

と伯父も申していたように、時折獅子舞や芸の練習をしている様子が見えたそうです。

更に、この寛永寺一帯の差配人もしていたそうで、当然の事ながら伯父が住んでいた上野桜木の地代も、こうした差配人が集金をしていたそうです。



言問通り沿いのおせん
この【おせん】の小さな小路を挟んで反対側には【養寿院】という寺院がありますが、ここには先の上野戦争で焼失し廃寺となった【笠森稲荷】のご本尊が祀られています。

【笠森稲荷】と言えば、水茶屋の娘【お仙】が有名ですが、その容姿から、江戸の三大美人とも言われ、元禄時代に刷られた錦絵等も飛ぶように売れ、水茶屋は連日沢山の若者が、【お仙】見たさに訪ねて来たそうです。

そういった関係から、おでん屋さんも【おせん】という名になったのでしょうか?

さて【おせん】を背にして言問通りを反対側に渡りますと、谷中墓地への小路となりますが、この角には、京成線の【寛永寺坂駅】として一時期使われた建物があります。(この駅の事は、後ほど詳しくご案内します。


言問通り沿いの養寿院

谷中墓地へと続くこの一帯は、上野桜木という町名ですが、その名の通りに墓地方面に向かって桜並木が続いています。
桜の季節には綺麗な桜のトンネルが出来ますが、上野公園と違って訪れる人も少ない、ちょっとした花見のスポットです。


上野桜木の桜並木

ティシェ・イナムラショウゾウと古民家

そして谷中墓地方面に向かいますと、都内でも有名なフランス菓子の【パティシェ・イナムラ・ショウゾウ】の綺麗なお店があります。
店頭には、ケーキを求める人が並び、多い日は30人近く並ぶ事がありますが、この人気店のお隣も古くからの家屋で、新旧のバランスがなんとも言えない雰囲気です。


この桜並木の奥一帯が谷中墓地で、最後の将軍となった徳川慶喜公も埋葬されています。

将軍家は代々寛永寺か増上寺に埋葬されてきましたが、将軍を辞したことから民間人とされ、ここに埋葬されたそうです。

他にも彫刻家の朝倉文夫氏。俳優の川上音二郎氏。政治家の鳩山一郎氏。童謡作曲家の本居長世氏。日本画家の横山大観氏。前述浅草奥山の写真家の江崎礼二氏。

そして私達の大先輩であり宝塚歌劇団のスターでもあり理事だった天津乙女先生も眠っていらっしゃいます。

天津先生が亡くなられた時は、私は宝塚音楽学校在学中で、葬儀にも参列させて頂きましたが、この葬儀の最中に、私達の頭上に一匹の白い蛇が現れた事は、忘れもしない出来事です。


徳川慶喜公墓地
この谷中墓地にはもうひとつ桜並木があります。

上野桜木からJR日暮里方面へ続く400m程の小路ですが、別名【谷中さくら通り】とも言われ、谷中界隈を散策する方々にとっては、外してはならない散歩コースのようです。

旧町名は谷中天王寺町と言うように、元々は【天王寺】の寺領の一部で、この小路も【天王寺】への参道でした。

この【天王寺】は谷中で最も古くから続くお寺で、鎌倉時代に【感応寺】として開山し、江戸時代には幕府公認の富くじ興行も行われ、《湯島天神》《目黒不動》と並んで【三大富】と言われていました。

先の【笠森稲荷】もこの【感応寺】の塔頭(寺院の中のお寺)として境内にあったようです。

その後江戸後期に【護国山天王寺】と改称して現在に至ります。

境内には小さいながらも大仏様が鎮座していますが、高さ4.8mの銅造釈迦如来坐像は、元禄3年(1690)に造られたもので、【天王寺大仏】と言われています。

先の上野戦争では、寛永寺同様に、この天王寺も彰義隊の駐屯地となりった事から甚大な戦禍を受け、本坊と五重塔以外は焼失してしまいます。

現在の本堂廊下にも、当時の刀傷がついた柱がそのまま残っていますが、その後明治政府によって接収され、天王寺領の大半が新しく墓地として整備され谷中墓地となりました。


天王寺へ続く谷中さくら通り/平成20年4月


天王寺入り口 山門
この天王寺境内には、かつて江戸時代に建てられ、上野戦争でも焼けず、関東大震災や東京大空襲をも耐えた五重塔が建っていました。

その姿はは、寛永寺五重塔をしのぐ34mという容姿で、関東一とも言われていました。

伯父の記憶の中にも立派な建物として、そして遊びの時には、丁度良い目印でもあったそうですが、昭和32年にとある男女の心中と共に焼失し、今は【五重塔跡】として石碑と礎石がそのまま残っています。

説明文と共に、焼失前の五重塔や、炎に包まれる姿。
そして鎮火後の様子の写真が掲示されていますが、現在【天王寺五重塔】の再建運動も行われているようです。

いずれにせよ、伯父たち兄弟にとっても、この谷中墓地は、寛永寺や上野公園と同様、遊び場として慣れ親しんだ場所のようです。

因みに《谷中しょうが》と言ういわゆる《葉生姜》は、この谷中近辺から日暮里駅近くで多く栽培されていた立派な東京の野菜で、伯父の少年時代はたくさん生姜の畑があったそうですが、さすがに現在は皆宅地となり、谷中生姜を栽培している所はないようです。




谷中五重塔跡/平成19年9月


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