昭和からの贈りもの 昭和6年〜8年の出来事

 昭和8年の出来事 1933   ・ 
【1月】
1 この日から日本放送協会のラジオ時報が手動式から自動式になります。
それまではアナウンサーが木槌を叩いていましたが、自動になった事で誤差はわずか0.2秒となります。
1 全国の100歳以上の高齢者は男性273人、女性205人と発表されます。
9 大島の三原山で実践女子専門学校の生徒が友人立会いのもと投身自殺をします。
更に翌月にもこの友人が再度立ち会っての投身自殺が起こり、新聞などで大きく報道されます。
この為三原山の自殺者が後を絶たず、この年だけでも1000人近い人が自殺をしたと言われます。
三原山については【6-16.昭和14年・三原山】にも掲載しており、噴火口に向かって歩く人々の姿を見る事も出来ます。
写真は【6-17.昭和14年・三原山 噴火口】に掲載している当時の三原山噴火口パノラマ写真です。(写真8-1)
20 陸軍省の軍馬補充買い上げが増えた事で、北海道や東北などの産地では馬の価格が高騰し1頭あたり平均価格が¥300となります。
30 ドイツでヒトラーが首相となります。
この頃から【ヨーヨー】が人気となり、翌月には競技会も行われ、次第に大流行となります。
ヨーヨーは海外旅行のお土産で日本に持ち込まれたのが最初とされ、初め関西で人気に火がつき直ぐに関東にも伝わり、モダンガールやモダンボーイの間で人気となり、その簡単な遊び方と10銭程度という安価からあっという間に子供達にも広がります。
同時に風船に水を入れた水ヨーヨーも1個1銭で販売さますが、こちらも人気となります。
現在のヨーヨーはさまざまな進化を遂げ、光ったりお散歩するヨーヨーや、競技としてテクニックを競うものがあれば、TVやアニメでは武器としても登場しています。
もちろんこの頃は普通のヨーヨーとして流行ったそうですが、当然の事ながら新しいもの好きの伯父たちもヨーヨーで遊んだそうです。
写真は家の遊び場としても度々写真に登場している二階の物干し場でヨーヨーをする兄弟です。(写真8-2)
因みに、この当時はあまりの人気に、国会議事堂の警備中の巡査が勤務中に遊んでいるのを写真に撮られ、退職したという事や、小学校では持っていないと恥とされたり、授業中に遊んだりしていることから、「ヨーヨー禁止令」も検討されますが、ブームとして流行ったのはこの年だけで、あっという間にヨーヨーブームは下火になります。


8-1.昭和14年に撮影された三原山噴火口


8-2.昭和8年頃にブームとなったヨーヨー
【2月】
14 富士紡績川崎工場のストライキの際、煙突に立てこもった煙突男こと田辺潔の水死体が横浜港山下橋下にて発見されます。
死因については《暗殺では?》との噂が広がります。
15 通常葉書や往復葉書の上部の表記が改正されます。
これまでの大正時代や昭和初期の絵葉書には【郵便はかき】と書かれていましたが、この日から【郵便はがき】と《か》が《が》に改められました。
絵葉書などは、事前に刷っていた事から、改称されるまで少し時間がかかったようですが、絵葉書のこの部分をみると、少なくても昭和8年前かどうかがわかります。(写真8-3)
19 上野駅北側に線路を跨ぐようにして架かる大きな橋は【両大師橋】といいますが、この橋が完成し渡り初めが行われたのがこの日です。
右の写真が現在の両大師橋ですが、将来道路交通量が増える事を見越して、現在の国立博物館や上野公園側と、昭和通りや浅草方面を結ぶ橋として出来たものです。(写真8-4)
が、当初の予想に反して現在は交通量も少なく、逆に上野や谷中方面への裏道として利用されている感があります。
尚、この両大師橋の上野側から浅草寺までは細い一本道の【かっぱ橋商店街】が通っておりますが、元々は江戸時代に将軍家が寛永寺に墓参に来た際、そのまま浅草寺に詣でる為の御成り道として作られた直線の道路です。
更に明治時代には馬車鉄道が通っていた路線でもあります。
詳しくは【3-39,上野近辺の街】をご覧下さい。
20 プロレタリア作家の小林多喜二が特高に検挙され、築地署にて暴行を受け31歳という若い生涯を終えます。
23 翌月から開催される【万国婦人子供博覧会】のコンパニオンこと【女子看守】の採用試験が日比谷公会堂行われ、400名の募集に対して5000人が応募します。
↓3月17日の出来事
24 この日開かれた国連臨時総会にて【満州国】を認証しない《対日勧告案》が42対1で採決され、その場で日本代表は退場し、翌月には国連を脱退する事になります。
この月に江崎(現グリコ)から幼児向けビスケットの【ビスコ】が販売されます。
当時注目されていた酵母を使った酵母菓子というキャッチフレーズで、1箱10銭で販売しました。
右は昭和初期のビスコの広告です。(写真8-5)


8-3.昭和8年以前の郵便はかき


8-4.昭和8年架橋の上野駅北側の両大師橋


8-5.昭和初期のビスコの新聞広告
【3月】
3 宮城県金華山沖で、マグニチュード8.1の巨大地震が発生し、高さ28.7mもの津波が町や村を襲い、3064名の死者行方不明者を出します。=《三陸沖地震》
そしてその78年後に発生した東日本大震災によって、宮城県以外の広い地域で津波が発生し、大きな災害をもたらす事となりました。
13 日本初となる救急車が横浜の山下消防署にに配備され、救急業務が始まります。
キャディラックの中古車で市民からの寄贈によりますが、15日には初の救急出動となり、新聞にも大きく取り上げられます。
こうした事から横浜市中区には【消防救急発祥之地】の碑が立ちます。
因みに東京ではこの年12月29日に、日本赤十字社に2台の救急車が配備されます。
17

この日から5月10日にかけて上野公園や芝浦にて【萬国婦人子供博覧会】が開催されます。
伯父もこの博覧会には行ったようで、
4-27.昭和8年・萬国婦人子供博覧会】にさまざまな写真と共に掲載しております。(写真8-6)
22 先の博覧会にあわせてドイツのハーゲンベック大サーカス団が来日し、28日から芝浦会場で興行を開始し、大好評となります。
博覧会終了後は日本各地を興行することになります。
このハーゲンベック大サーカスについては、【4-30昭和8年・萬国婦人子供博覧会 4】及び【4-31昭和8年・博覧会 5 絵葉書】にも記載しております。(写真8-7)


8-6.萬国婦人子供博覧会会場/昭和8年
8-7.ハーゲンベックサーカス/絵葉書
【4月】
1 この日に児童虐待防止法が公布されました。
→10月1日施行
この頃は相次ぐ飢饉や恐慌などから子供の身売りが多く、曲馬団や曲芸団、酌婦や女給に酷使される児童が多かったから、14歳以下の児童の虐待や重労働などが禁じられます。
これによって曲馬、軽業などの危険な業務。
辻占売、角兵衛獅子など路上で物を売る行為。
そして芸妓酌婦などが禁じられます。

婦人の人権がようやく問われるような時代でしたので、子供の人権は更に低い状態でした。
《悪いことをするとサーカスに売り飛ばすよ!》という親たちの会話があったのは、こうした事実に由来する事がわかります。
1 この日から小学校では新しい教科書が使われる事になります。
1年生用の国語教科書はサイタサイタサクラガサイタ・・・で始まり【サクラ読本】と称され、初の色刷り教科書となります。
1 浅草六区の常盤座でで古川緑波を中心に、弁士だった徳川夢声、大辻司郎らが劇団《笑の王国》を結成し旗揚公演を行います。
他にも清川虹子や渡辺篤らも団員でしたが、アチャラカ演劇が大衆に受け、旗揚公演は札止めの大盛況となり、この後《エノケン・ロッパ》と言われるようにロッパは浅草の大スターとなります。
右は当時の浅草常盤座前に立つ笑の王国ののぼりです。(写真8-9)
7 小林多喜二著の【蟹工船】が発禁処分となります。
この年2月に特高警察によって虐殺された小林多喜二の代表作で、昭和4年に発表された作品です。
この作品は国内はもとより世界各国で翻訳され大反響となり、舞台や映画などでも数々上映されます。
写真は後に復刻された【蟹工船】です。(写真8-10)
11 百貨店ではこの日から足袋のサイズ表示をメートル法にあわせてセンチメートルに変えます。
それまでは寸表示でした。
28 海軍の予科練に続き、陸軍でも少年航空兵の制度が制定されます。
翌年から応募が始まりますが、初年は30倍と言う難関でした。

音羽ゆりかご会が発足します。
作曲家の海沼実氏が、文京区の護国寺内の幼稚園の一室を借りてスタートしますが、後に「あの子はたあれ」「お猿のかごや」「みかんの花咲く丘」等の童謡を発表します。
この月から丹頂(現マンダム)より、わが国初の固形整髪料【丹頂チック】が発売され人気となります。


8-8.小学国語読本

8-9.浅草常盤座前の【笑の王国】のぼり/you tube

8-10.復刻版蟹工船
【5月】
10 この日発売の少年倶楽部6月号から【冒険ダン吉】の連載が始まります。
既に国民的人気となっているのらくろに次いでの人気となってゆき、昭和14年まで連載が続きます。
20 大坂初の地下鉄となる大阪市営高速鉄道が、梅田〜心斎橋間で開業します。(御堂筋線)
20 本名を明かさず顔も全て出さない覆面歌手ことミス・コロムビア(松原操)が歌う【十九の春】(you tube)が発表され人気となります。
当時の人気スター高嶺秀子と伏見信子共演の同名の映画の主題歌として発表されますが、この後は顔を出しミス・コロムビアとして次々とヒット作を送り出します。
その後昭和15年に内務省から通達された《カタカナ芸名禁止》によって、ミス・コロムビアの芸名が使えなくなり、本名の松原操を名乗ることになります。(写真8−11)
因みに覆面歌手というのは、ミス・コロムビアの登場以前の昭和6年に、金色仮面(ゴールデンマスク)という名で既に売り出されヒットしており、それにあやかってミス・コロムビアが誕生しました。
この黄金仮面はその後本名の小林千代子で活動し人気となり、翌年はさくら音頭を小唄勝太郎らと共に歌い大ヒットとなります。
26 京大の滝川教授の講演と著書【刑法読本】が《赤化傾向》であるとして、文部省が辞職を要求した事に対し、この日京大法学部教授39人全員が辞表を提出します。=《滝川事件》
29 島の娘の大ヒットとこの年1月の自殺騒ぎで一躍人気観光地となった三原山ですが、この日噴火口に読売新聞の記者がゴンドラで降下すると言う探検が行われます。(写真8-12)
翌日の新聞には《世界的大探検成功・三原山火口を究む》との見出しで報道され、号外が出る程となります。
降下途中自殺者の死体を発見などもし、1250尺(380m)の降下に成功し、次にはカメラマンも降下し火口近辺の写真撮影をし、新聞には「猛噴煙の真只中に千古の秘密を撮す」と掲載されます。
この頃東京の数少ない江戸の名残りである霞ヶ関の【侍長屋】の永久保存が決定した。との記事がありました。
残念ながらこの霞ヶ関の侍長屋は今は存在しておりませんが、大正8年刊の【東京府史跡】の中に、侍長屋の写真を見つける事ができました。
右がそうですが、写真は霞ヶ関にあった筑前福岡藩黒田家上屋敷の侍長屋です。(写真8-36)
明治時代になってこの場所一帯に外務省が置かれたことから、外務省長屋と呼ばれますが、残念ながら関東大震災によって焼失したと思われます。
撮影は明治末から大正初期と思われますが、写真でも判るように窓がなく海鼠壁が続く長屋で、この通りをはさんで反対側にも、安芸広島藩浅野家の上屋敷が並んでいました。
この霞ヶ関近辺には全国の諸大名の屋敷があり、こうした長屋の造りが並んでいたようです。
この他にも神田橋内長屋の写真など詳しくは【2-35.大正初期・侍長屋】を参照下さい。
現在は侍長屋こそ残っていませんが、霞ヶ関から程近い皇居東御苑には、百人番所や大番所、同心番所という詰所が、当時のまま保存されています。
侍長屋とは違いますが、江戸城登城の際の武士をチェックしたという古い史跡で、江戸時代を垣間見る事ができます。(写真8-13)
イギリスのネス湖で、未確認生物ことネッシーの報道がなされたのがこの頃からです。
翌年にはロンドンの外科医がネッシーの撮影に成功し【外科医の写真】として長らく知られるようになります。(写真8-14)
がその後60年を経て撮影者の医師が、死に際に写真はトリック撮影だった事を告白しています。
告白前から、「波紋の形から見ると、被写体は小さいはず」などの疑問が報じられていましたが、ネッシー報道以来、全世界で未確認物体がさまざま報じられるようになります。



8-11.松原操/you tube

8-12.ゴンドラでの降下に成功した記者/読売新聞

8-36.外務省長屋/東京府史跡

8-13.皇居東御苑内 百人番所

8-14.ネッシー・外科医の写真
【6月】
5 長野放送局が、戸隠の山麓にて初の野鳥の声中継をします。
5 東京明石町に『東洋一を誇る』聖路加国際病院が完成し開院式が行われます。
明治35年に創立された聖路加国際病院は関東大震災によって倒壊しましたが、ロックフェラー財団の寄付などで、当時珍しいネオゴシック建築様式で建築されます。
病院内にチャペルを併設しますが、現在も新病院の中に当時のチャペルが残っています。
右は完成当時の聖路加国際病院の空撮です。
(写真8-15 土木学会付属図書館より転載)
7 大坂毎日新聞にて【丹下左膳】の連載が始まり翌年には東京の読売新聞でも連載が開始され、以降映画も毎年公開され人気となります。(写真8-16)
尚、丹下左善の登場は昭和2年の【新版大岡政談】の中の登場人物としてでしたが、その風貌や役柄が人気となり、今回のタイトルとなります。
13 浅草松竹座にて水の江滝子らレビューガールが、待遇改善を求めてストライキを行います。
その後事態が進展しない事から翌月にはレビューガールら132人が兵糧米などを持って湯河原に籠る事になり、1ヵ月後の7月16日にようやく解決します。
当時は《西の宝塚東の松竹》と言われる程の人気で、雑誌や新聞などにもたびたび登場します。
右はこの頃のトップスター水の江滝子と及川道子です。(写真8-17)
17 大坂で《ゴーストップ事件》が起こります。
大坂市天神橋筋の交差点で、信号無視をして横断歩道を渡ろうとした兵士を咎めた巡査の言い合いが殴りあいに発展し、軍と警察の問題となり新聞沙汰となりました。
19 丹那トンネルが開通します。
着工以来15年2ヶ月の歳月を費やしましたが、途中大量の湧水や落盤事故が起こったり、関東大震災では大きな被害こそなかったものの、昭和5年の北伊豆地震では断層によって地面がずれてトンネルがS字にせざるを得ないなどの困難と、63人の犠牲者を出しての貫通でした。
実際の開通は翌年12月になりますが、写真は完成後にトンネルを走る特急つばめです。(写真8-18)
23 登山ブームの中、銀座に女性の為の山の案内所が開設されます。
この年4月には女性登山家の中山照子が雪の南アルプス登山に成功し、6月には女性用登山服も発表され、登山ブームは女性にも広がります。


8-15.完成した聖路加国際病院空撮/土木学会付属図書館蔵

8-16.昭和10年公開の映画ポスター/ウィキペディア

8-17.水ノ江滝子と及川道子

8-18.丹那トンネル/絵葉書
【7月】
1 松坂屋では全女子店員の制服を和装から洋装に統一します。
前年の白木屋火災の影響と言われますが、白木屋でも補助金を出して洋装の奨励をします。
7 上野駅の常磐線ホーム近くに煙草の自動販売機が設置されます。
7 陸軍省は満州事変で戦死した軍用犬に対し軍用犬功労章を授与すると共に、神奈川県逗子の延命寺に軍用犬の像を建て、この日【忠犬之碑】の除幕式が行われます。
9 松山城で放火による火災が発生します。
山の上に建つ山城の為消火に手間取り、鎮火したのは火災発生から4時間半後で、
小天守・南北隅櫓・多聞櫓等が焼失します。
尚、西日本13府県で連続放火を繰り返した犯人は、昭和13年に逮捕され死刑判決を受けます
20 長崎の海水浴場で、事故や盗難、風紀の乱れを防ぐ為、海水浴場を男女別にし、休憩所などでも酒類の販売を禁止する事が定められ取締りが行なわれます。
既にこの頃の夏の避暑地として海は大人気で、伯父達兄弟も毎年のように逗子や内房や外房などの海に出かけていました。
写真は大正14年の茨城県河原子海水浴場(写真8-19)と昭和5年の逗子海岸の様子です。(写真8-20)
25 毎年暑い夏が来る度に語られるのがその日の最高気温ですが、日本の最高気温は平成19年に73年ぶりに更新されました。
それまでの日本で一番暑い記録は、この日に山形で記録した40.8℃という温度です。
今のように観測地点も多くはなかった時代ですので、もしかしてもっと暑い地区があったのかも知れません。
因みにこの頃の新聞には
「海よりも山よりもみんな一緒に涼しい高島屋へ」
という広告も登場します。
この月に日本ビクターより【東京音頭】が発売されます。
【東京行進曲】同様に、西條八十、中山晋平のコンビによるものですが、前年発売された【丸の内音頭】の歌詞を、東京の盆踊り風にする企画として作られ、【島の娘】で人気上昇中の小唄勝太郎が歌い、大ヒットとなります。
右は当時の東京上野や隅田川、市場などをバックに流れる東京音頭です。(写真8-21)
東京市ではこの月から家庭ごみを生ゴミと燃えるゴミに分ける分別回収を始めます。


8-19.河原子海水浴場/大正14年

8-20.逗子海岸でくつろぐ兄弟/昭和5年

8-21.発売当時の東京音頭音源/you yube
【8月】
1 時事新報社が主催し、東京市が後援の【東京音頭盆踊り大会】が芝公園で開催され大盛況となります。
これによって【東京音頭】は2〜3ヶ月で30万〜40万枚販売の大ヒットとなります。
大ヒットの背景には内務省や陸軍省も思想誘導の意味で賛同し、文部省推薦曲となった事もありますが、 江戸時代は幕府のお達しの為、盆踊りという風習がなかった東京において、皆で踊ると言うことが一気に人気となって広まった事も一因とされます。
この後各地の広場や空き地に次々と櫓が立ち、夕方になれば蓄音機が持ち込まれて、皆で踊ったそうです。
1 帝都電鉄渋谷線(現京王井の頭線)が渋谷駅〜井の頭公園駅の間で開業します。
翌年には吉祥寺まで繋がりますが、右は昭和10年の井の頭公園での伯父の弟達です。
9 第1回《関東地方国防大演習》がこの日から4日間の日程で行われ、大規模な演習となります。
関東地方に敵機が来襲するという設定で、東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城の1府4県が参加し、1千万人もの人が参加し、消火訓練が行われたと新聞には掲載されます。
写真は横浜市で行われた防空演習の絵葉書す。
説明文には【吉田橋上にて煙幕の延焼と防火作業準備】と記載されています。(写真8-20/横浜市史資料館蔵)
11 信濃毎日新聞社主筆の桐生悠々が《関東防空大演習を嗤(わら)ふ》とした防空演習批判の社説を掲載します。
首都に敵機が来る前に太平洋沿岸で迎つべき
首都に敵機が来たら火の海になるであろう
首都で敵機を迎える時は我が軍敗北の時である
防空演習は却って人心を狼狽させるだけである
こうした社説の為、陸軍の怒りを買い、桐生悠々は新聞社を退社する事になりますが、この事は後に現実のものとなります。
19 五・一五事件の陸軍軍人被告11人に対し陸軍軍事法廷が行われ、反逆罪によって全員に禁固4年が言い渡されます。
一方海軍軍人の法廷は9月11日に開かれ、2名に禁固15年が言い渡されます。
このクーデター未遂事件に関しては、全国的な刑嘆願運動が起こり、この為に甘い判決になり、後の陸軍青年将校による二・二六事件の伏線になったとも言われます。
右は当時の判決を伝える号外です。(写真8-23)
21 上野動物園は来日中のハーゲンベックサーカス団からキリン2頭を購入します。
購入金額は25,000円という価格ですが、ハーゲンベックサーカス団は動物商も兼ねており、来日して全国を回る中で全国各地の動物園との商談も目的の一つでした。
11月にはチーターも購入しますが、写真はこの時に上野動物園で購入したつがいのキリンです。
翌月には高子と長太郎と命名されましたが、【4-46昭和8年・上野動物園】にも掲載しております。(写真8-24)
この頃ジグゾーパズルが人気となります。
この月、愛知トマト製造(現カゴメ)がトマトジュースの販売を開始します。
フランス文学のエルナール作【にんじん】が岸田国士の翻訳で出版されます。
それまでの日本文学にない表現などが話題となりベストセラーとなります。


8-20.横浜での防空演習/横浜市史資料室蔵

8-23.判決を伝える新聞号外

8-24.上野動物園の2頭のキリン/昭和8年
【9月】
1 貨幣法の改正と造幣規則改正勅令に基づき、5銭と10銭のニッケル硬貨が新しく鋳造されます。
時局の悪化に備えいざとなったら兵器用に回収して使用する目的からですが、硬貨のデザインは一般公募で採用されました。
14 米国映画のキングコングが日本でも上映されます。
右は公開当時の新聞広告ですが、《身長50尺体重50トンの巨獣、丸ビルなんか一跨ぎだ》のキャッチフレーズとなっています。(写真8-25)
が、新聞には『若干の木戸銭に値する見世物』と酷評されます。
尚、この映画を見て大きな影響を受けたのが、後に日本特撮映画の父と称される円谷英二です。
24 この頃流行となったコリントゲームの為、子供客を奪われた紙芝居屋が、コリントゲーム商の店主に暴行するといった事件が起こります。
【コリントゲーム】は最近のものが我が家にありますが、発表当時とは基本的には変わっていません。
このゲームは小林脳行(現小林製薬)が日本に紹介したものですが、[小林]を[コリン]と読み違えて紹介し[コリン]→[コリントゲーム]となったようです。
パチンコのルーツとも言われていますが、デパートの屋上や、大型のゲーム機を揃えたコリントゲーム屋も全国に広まります。
右はこの頃の新聞広告です。(写真8-26)
28 新宿に地上7階地下1階の伊勢丹デパートが開店します。
伊勢丹は明治19年(1886)、神田旅篭町(現昌平橋交差点)に伊勢屋丹治呉服店として創業します。
関東大震災で全焼した後、2階建ての店舗に新築しますが、客足が伸びないことと、新宿駅の乗降客が伸びている事に目をつけ、新宿に移転することになります。
尚、昌平橋交差点近くには、【伊勢丹発祥の地】の碑があります。
30 大河内伝次郎主演の【鼠小僧次郎吉】が封切られ人気となります。
昭和6年に大佛次郎が長編時代として発表し、翌昭和7年には映画化されますが、この年大河内伝次郎が主演としてリメイクされ人気となります。


8-25.当時の新聞広告

8-26.当時の新聞広告
【10月】
1 この日児童虐待防止法が施行されます。
5 日本初の山岳リゾートホテルとなる上高地帝国ホテルが開業します。
当時の案内によると、
《3階建てスイスコツテージ風、写真現像室、乾燥室完備、1泊3食10円より。朝食1円50銭、昼食2円、夕食2円50銭〜》
との事ですが、他のホテルが1泊3円〜4円に対して帝国ホテルが如何に高級ホテルかが判ります。。
6 東京府の社会課児童係員が浅草吾妻橋でマッチ売りをしていた少年を保護します。
児童虐待防止法が定められて初めての適用となります。
11日には曲馬団でも8歳から11歳までの少年少女11人が保護されるなど摘発が続出します。
10 富士山麓鉄道が、富士山5合目にスキー場を開業します。
右は昭和9年版の富士山麓スキー場の案内パンフレットですが、内側には富士山を中心とした各スキー場の地図が掲載されています。
(写真8-27.富士みずほ通信より転載)
地図を見ると、この頃は吉田口スキー場として3つのゲレンデがあり、鳴沢側にも鳴沢高原スキー場として2つのゲレンデがある事が判ります。
22 神宮球場で行われた早稲田大学と慶応大学の野球の試合終了後に、両応援団が大乱闘となり、警察が出動する騒ぎとなります。
これは9回表に早稲田応援団が投げたリンゴの芯を3塁手の水原茂選手が投げ返した事をとって《早慶リンゴ事件》と称されます。
当時の早慶戦の人気は物凄く、観覧チケットの競争率も激しく、ダフ屋も出るほどの人気だったそうですが、右は昭和6年の六大学野球の様子ですが、詳しくは【
4-13.昭和6年頃・六大学野球】に掲載しております。(写真8-29)


8-27.富士山麓スキー場案内/富士みずほ通信蔵

8-28.富士山麓のスキー場地図/富士みずほ通信蔵

8-29.昭和6年頃の六大学野球
【11月】
8 目黒競馬場の移転先となった府中町に東京競馬場が開場します。
馬場開きには陸軍騎兵学校教官で、前年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルとなった西竹一ことバロン西らが馬術を披露します。
右は開業から間もない東京競馬場です。(写真8-30)
17 ダンスホールの摘発をきっかけに、有閑マダムやダンス教師らの自供から、名文士や実業家ら賭博が明るみに出ます。
こうしたダンスホールの摘発は今後更に強化される事になります。
22 新橋演舞場で26日から4日間公演予定の【源氏物語】が、警視庁保安部から『劇全体が社会の風紀を乱す』との事から上映が中止令が出されます。
25
芝浦に東洋一の【東京芝浦アイススケート場】がオープンします。
25m×60mのリンクとスタンドの収容は1500人という規模のスケート場ですが、この頃のスケート人気は前年の第3回冬季オリンピック大会(レークプラシッド)に日本人選手が参加した事によって一層高くなり、この後も大阪や京都にもスケート場がオープンします。
尚当時は【氷滑】と称されていましたが、この頃よりようやく【スケート】という表現がされました。
右は当時のスケート場外観とリンクです。(写真3-29、8-30いずれも土木学会付属図書館より転載)
この頃【のらくろのお面】が売り出され、3〜4ヶ月の間に、500万個以上の売り上げを記録したとありますが、お面以外にも貯金箱や鉛筆、万年筆、消しゴムといった文具から、ハンカチに靴に、草履とさまざまな【のらくろグッズ】が売り出され大人気だったそうです。
この【のらくろ】の場合、権利の主張をしなかった為、さまざまな業者が次々と商品化し、結果それが【のらくろ】人気を後押ししたということもあるようですが、いわゆる元祖キャラクター商品といえるでしょう。
いずれにしても人気のキャラクターがあれば何でも商品にするのは、今も昔も変わらないようです。

8-30.開業当時の東京競馬場/ウィキペディア

8-31.開業した芝浦アイススケート場/土木学会付属図書館蔵

8-32.芝浦アイススケート場内のリンク/土木学会付属図書館蔵
【12月】
10 この日京成電車の上野公園〜成田間が全線開通します。
それまでの京成線は成田から日暮里までは運行しておりましたが、寛永寺坂駅(現在廃駅)、博物館動物園駅(現在廃駅)と共に上野公園駅が開業します。
右は昭和10年頃の寛永寺坂駅ですが、この駅に関しては【5-11.昭和10年頃・京成電鉄寛永寺坂駅】に詳しく記載しております。(写真8-33)
20 群馬県草津スキー場に、日本初のナイター設備が整い、ナイター営業が開始されます。
23 現在の天皇陛下である、当時の皇太子が誕生されたのがこの年12月23日です。
当時の国民の祝賀ムードは最高潮に達し、皇居二重橋前には大勢の市民が集まり、日の丸片手に万歳三唱を唱え、北原白秋作詞、中山晋平作曲という、当時次々と童謡をヒットさせたコンビで【皇太子様がお生まれになった】という歌も発表されます。

歌詞は
《日の出だ 日の出に 鳴つた鳴つた ポーオ ポー
サイレン サイレン・・・》
という出だしですが、これは誕生時にはサイレンが鳴って知らせた事によります。
因みに、この時のサイレンは、皇太子誕生の時は1分間のサイレンを2回、内親王誕生の場合は1回とと既に発表されていました。
24 有楽町に日本劇場が開場します。
入場料50銭という安い金額で人気となります。

8-33.昭和10年頃の寛永寺坂駅

8-34.宮内庁より発表された皇太子

この年の春に東京にトロリーバスが登場します。
昭和初期から模型飛行機が人気となり、競技会なども数多く開催されていましたが、この年【バタバタ機】と呼ばれる羽をはばたかせる模型飛行機が20銭で発売され人気となります。
写真は昭和5年頃の伯父自宅の屋根から撮った兄弟たちですが、4男が手にしているのはゴムの飛行機です。(写真8-35)
この年現在のアコーディオンと同じピアノ鍵盤式のアコーディオンがトンボハーモニカ製作所(現トンボ楽器製作所)から140円で販売されます。
日本で初めてのジャズ喫茶【ちぐさ】が横浜野下にオープンします。
この年になって人気となったのが【栄養と育児の会(現わかもと製薬)】から発売されていた【わかもと】です。
米国ではフライシャー兄弟のマンガ【ポパイ】が登場します。

8-35.当時流行した模型飛行機
昭和8年の流行 
童謡 サーカスの唄、音羽ゆりかご会
玩具・遊び ヨーヨー、ヨーヨー(水風船)、ジグゾーパズル、コリントゲーム、バタバタ機、ベティブープ人形、ゴム縄跳び
流行歌 東京音頭、山の人気者、十九の春、島の娘、皇太子様がお生まれになった、ハァ小唄
舞台・映画 丹下佐善、鼠小僧次郎吉、十九の春、伊豆の踊子、滝の白糸
文化・社会 ロングスカート流行、ヨーヨーブーム、
言葉 非常時、男装の麗人、ナンセンス、転向、ゴーストップ、一網打尽、ヅカガール
モノ・人
ヨーヨー、あんみつ、ブラジルコーヒー、わかもと
本・読み物 丹下佐膳、女の一生、にんじん
ラジオ 野鳥の声の初中継
この年の初登場
ビスコ、トマトジュース、丹頂チック、トクホン
この年の物価
豆腐1丁5銭、列車食堂50銭、汽車弁当30銭、富士山頂昼食60銭、富士山頂宿泊1円50銭、富士山頂記念写真1円20銭、うどん1玉2銭、ビスコ10銭、食パン1斤14銭、カルピス1円35銭、女給月給40円〜50円、松坂屋女子店員日給90銭、家庭教師料1回80銭、松竹歌劇月給(スター以外)10円〜20円、ヨーヨー10銭、ロート目薬30銭、わかもと1円60銭、電気アイロン2円40銭、圧力鍋15円〜、花王石鹸9銭、花王シャンプー5銭、登山リュック2円〜、登山ピッケル1円50銭〜、宝塚少女歌劇入場料1円・2円・3円、ダットサン1350円、子供用自転車19円90銭、

←BACK ・ NEXT→


昭和からの贈りものTOPへ

お星さまの贈りものTOPへ